髪が鼓膜に刺さっていたことがあったんですが、
結構痛かったのに、あー髪刺さってるねーって行きつけの病院の先生に言われた時にはびっくりしました。
行きつけの病院ってなんですかね。かかりつけ。
ヨコワです。昔チョコワが好きだったので語感的にこの略称が気に入りました。
価格高騰に伴いチョコワはいつからか買ってもらえなくなりましたが…
自分の好きなこととか思ったことを書く場所として設けたので
今日はここ最近やっぱり考えないとな~と改めて実感したことについて書きますね。
戒めみたいなものなので、特大のブーメランで頭直接殴るようなものですが!
「他人様に迷惑をかけないように」
これだけが僕の家で唯一と言っていいほど言われた言葉で、子どもの頃はそうやって生きようとしてた時期もありました。
高校生の時に誰にも迷惑をかけずに生きたいと言ったら、それは無理なんじゃない?と言ってきた友だちがいて、やっぱりそうなのか~と思ってはきていたんですが、それでもやっぱりチラつきますよ。だって迷惑はかけたくないですし。
でも20歳前くらいかな、これって一種の「呪い」なんじゃないかなと思いまして。のろい、です。まじないじゃないですよ。
親のことは好きだけど、それでも呪いだと思ってしまったことに驚いた自分がいたんですよ。
言葉って、毒にも薬にもなるじゃないですか。
誰かにもらった言葉が、その時は嬉しくても後々になって重荷になったりしてどうしようもなく苦しくなることもあるし、
何気なく放たれた言葉が耳の奥にずっと残ってしまったりもする。
それは同時に自分が放った言葉が誰かを傷つけたり呪いになる可能性を常に孕んでいるってことなんですよね。
紙で指を切るような、髪が鼓膜に刺さるような。多分暫く治らなかったり、自分ひとりでどうにもできなかったりするものだと思うんです。
元気に見える人にあんまり痛くないエアガンで攻撃したら服で見えない、瘡蓋にもなっていない傷に当たる、そんな感じのものもあると思います。
だから誰も傷つけないようにしたいとかそういう話ではないです。
傷つけようとして選んだ言葉も呪いとして残ればいいと思って投げた言葉もありましたし。
加害者であることを忘れないようにしたい、という意味での戒めです。
加害者というと言葉が強すぎますかね。何も話せなくなってしまう気がする。
自分の発した言葉に責任を持ちたい、くらいです。多分。
自分の言動の裏にある感情を全て見るのはほとんど不可能に近いと思ってますが、客観化、言語化には意味があると思っています。
綺麗なものだけで構成されているわけないじゃないですか。
憎悪も悲哀も自然な感情で、感じないようにするためには後から矯正するしかないんですよ。愛憎も喜怒哀楽も後から無理矢理分類されただけで混ざっているものがむしろ純粋だと思っているので
自分の発言にそういう感情が入っている、そういう前提で自分のことを見ていたいなという気持ちです。
ただまぁ、ナイフみたいな言葉は自分の周囲の人間から傷つけていくので、発言には重々気をつけようかなと思います。
おわり!
written by 夜が怖い